3.11って見ると今でもドキッとしてしまう。東京にいた自分と宮城にいた母と弟

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今日はあのショッキングな出来事があってから13年。

今でも3.11という数字を見ると「ドキッ」としてしまうほど、脳裏にその数字が焼き付いています。

13年という数字だけ見るとかなり経ったという印象がありますが、2011.3.11のあの日だけは今でも記憶が強く残っています。


私は東京で仕事をしていましたが、かなり強い揺れを感じその後の幾つもの強い余震。

東京でもあれだけパニックになりましたが、私個人的には宮城県に母と弟もいたのでかなり心配しました。


今日は3月11日。

その数字から、今でも思い出すあの日の記憶を綴りたいと思います。

目次

東京にいた自分

あの日は仕事の真っ最中。

あの時間に、今までに感じたことのないかなり大きな地震が起きました。

揺れが起きた時には何が何だかわけが分かりませんでしたが、数十秒後には「ヤバイ!」と感じ職場のみんなで外へ避難。


その後も大きな余震がいくつも起きました。

外にいるのに揺れが分かるほどの大きさ。

ミシミシと建物や窓ガラスが揺れる音が聞こえ、電柱と電線がグラグラ揺れる光景は今でも目に焼きついています。


家には妻と義母がいたのですぐに携帯から電話すると、全く繋がらず安否がかなり心配に。

何度かけても電話は繋がらず、公衆電話なら繋がるとの情報。

職場のすぐ近くにあったので、そこから自宅にかけようと向かいました。

公衆電話には10人ぐらい並んでいましたが、順番が来て電話すると無事に妻に繋がりました。

2人ともなんともなく、家の中もほぼなんの被害もなかったとのことで安心しました。

その後も余震の揺れる中、今ほどスマホが普及していなかたったので、情報は車からのラジオやテレビ。

そのテレビに映っていたのは、東北地方での大地震と大津波警報が出ているというシーンでした。


私は宮城県塩竈市に実家があり、当時は母と弟が住んでいたのでかなり心配になりました。

今度は弟の携帯にかけますが全く繋がらず。

再度公衆電話から連絡を取ろうと向かいましたが、先ほどとは打って変わって長蛇の列ができていました。

公衆電話からの連絡は諦め、携帯電話から何度もかけますが繋がる気配は全くなし。


その後は余震も収まり職場の事務所に戻ることに。

宮城にいた母と弟

職場に戻ってからは、社員全員の安否確認作業に追われました。

外に出ている社員全員に連絡を取る作業。

当時は携帯電話でこちらからかけるとなかなか繋がりませんでしたが、会社の固定電話からかけると繋がりやすかったんです。

さっきの公衆電話もそうでしたが、この日はそんな記憶があります。


社員名簿を見ながら一人一人安否確認を事務所全員でしていました。

そんな中、同僚が私の実家が宮城県だと知っていて

「社員の安否確認は私たちがやりますから、ご実家のご家族の安否確認を」

と言ってくれたんです。

その優しさは今でもハッキリと憶えています。

お言葉に甘え周りは社員の安否確認の電話をしている中、私は宮城にいる弟の携帯にかけました。

何度もかけますが呼び出し音もならない状態。

当時は、母は携帯電話を持っていなかったので弟にしか連絡を取る手段がなく、何度もかけますが全くダメでした。

海のすぐ近くにいる母が心配

当時の母は、地元の水産加工工場でパートをしていたんです。

その工場はほぼ目の前が海。

テレビやラジオから入ってくる情報は、東北地方の大津波が押し寄せている映像や建物や車が流されている光景。


終わった・・


と思いました。


母は目の前が海の工場で働いている

連絡も取れない


その間にも被害の情報がどんどん入ってきます。

結局弟には全く連絡が取れず、東京で働いている私は電車が止まっていて帰れないことに。

電車が再開するまで会社にいることになりました。

東京では家にも帰れず

職場ではラジオをずっと流した状態で、今日1日支障が出た仕事の整理やら連絡に追われました。

だんだん職場に残ったみんなの疲れも溜まり、どんよりとした空気。

ラジオからは地震情報。

東京では鉄道がほぼストップしていて、職場では車で通勤している人は帰り始め、電車通勤の人は乗せてもらって帰る者と鉄道が再開されるまで残る者に分かれました。

私の住まいは千葉県船橋市なので車に乗せてくれる人はいず、鉄道再開まで会社に残ることに。


夕食をとろうと近くのコンビニに行きましたが、商品の陳列棚はほとんど何も残ってなく、カップラーメンだけはなんとか買えそれで空腹を満たしました。

その間にも、何度も宮城にいる弟の携帯に連絡を入れますが全く繋がらず。

完全に海の近くで働いている母は「ダメだ、もうダメだろう」って諦めかけていました。


夜の22時台だったと思います。

ラジオから、私が通勤で使っていた東西線が再開との情報。

これを聴いて帰宅することにしました。

会社の椅子にずっと座っているのもきつく、横になれるスペースもなかったのでとにかく家で休みたかったんです。

職場を出て駅に向かうと22時台にも関わらず大勢の人。

電車も朝の満員電車並みの状態でした。

それでも帰る喜びの方が大きく、全く苦になりませんでした。

夜中に帰宅

やっと帰れる

よかった


と混雑する車内で安堵感に浸っていると、急にこんなアナウンスが。

「現在地震の影響で原木中山駅までとなっております」


えっまじで!?


私の住んでいる最寄駅は船橋駅。

原木中山駅の1つ先の西船橋駅まで行き、乗り換えてさらに1つ先が船橋駅。

駅2つ分の手前で下ろされたんです。

タクシーで帰ろうと急いで駅前のタクシー乗り場へ。

長蛇の列にも関わらずタクシーが1台もいないんです。


これはダメだ。

歩いて帰ろう。


そう決断し、原木中山駅で下りたことがなかったので見慣れない暗闇の中、感を頼りに家の方向に歩いていきました。

この時の光景は今でも憶えているのですが、同じ方向に歩く大行列ができていたんです。

時間はもう夜中の12時。

そんな時間にも関わらず歩道には行列ができ車道は車で大渋滞。

歩いている我々の方が早かった印象があります。

駅2つ分と行っても原木中山から隣の西船橋駅までは2つか3つ分ぐらいある距離。

歩いても歩いても全く先が見えない状態。


結局この日は自宅に着いたのが、夜中の4時前ぐらいだったと思います。

多分3~4時間ぐらい歩いたかと。

でも周りにはもっと自分より先まで歩く人がたくさんいたので、もっと遠い人もいたと思います。

船橋駅近くを歩いた時に、コンビニやカラオケやサウナなんかには店内で暖をとる多くの人がいました。

多分、各店舗が帰宅困難者にスペースを開放していたと思います。

宮城にいた母と弟は・・

原木中山から自宅まで歩いている時に、宮城にいる弟に何度も電話をかけました。

携帯電話の充電がどんどん減っていきました。

この頃はモバイルバッテリーというものが、今のように当たり前の時代ではなかったので

「家に帰るまでもたなかったらどうしよう」

と心配しながらも、弟の携帯に何度も何度もかけました。


夜中の12時近かったと思います。

ようやく繋がったんです。

電話先では弟の声。


「やっと繋がった~~。」

「無事か?」

「おかんは?」


興奮気味の大きな声で話すと、なんとか無事だったんです。

2人とも無事。

母は携帯を持っていなかったので、弟も母を探すのが大変だったと言ってました。

避難所を何箇所も周り、やっとさっき母を見つけたと言ってました。


いやぁ~よかった。


海の目の前の職場だったので「もうダメか」と思っていたのですが無事でした。


後で聞いた話によると、母が勤めていた水産加工会社が、当時地震が起きた直後に「すぐに高台に避難するように」って指示を出したそうなんです。

それで全員すぐに避難し助かったとのこと。


もちろんその場にいたら、完全に全て津波に流されていました。

最後に

東京にいたにも関わらず、今でもあの日のことは心に強く残っています。

今年は能登半島地震が起こったばかり。

現地の人には1日でも早く日常に戻れることを願っておりますが、どこでいつ起きるか分からない。

そう思うと


今の我々は何をするべきなのか

どんな準備をしておくべきなのか


と考えさせられます。


人生とは何か、生きるとは。


普段生活していると、そんな思いはどんどん薄まっていきます。

でもこういう日に戻ってくるあの日の記憶。


その時の記憶を心に刻み、まずは今日1日大事に生きなければと思いました。

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